募金

yusuke12006-03-17

今日新聞に、唇がめくれ上がる病気の治療のための募金を募る広告が載っていた。この病気を持つ人は人からからかわれたり差別されたりする。2万5千円で手術が受けられるんだけど途上国の患者の多くはその費用を工面できない。
上の写真だ。衝撃的だった。飯を食っている途中だったけど「何かしないとなあ、こういうのに一生背を向けて生きていくのは心苦しいなあ、募金しよう。」
写真のインパクトはでかい。目に見える障害や病気を持っている人を見て何かしなきゃいけないと思うのは人として当然だろう。
よし、募金してすっきりしよう。これで全部解決だ。



と、ここまで読んで「そうそう」と思った人はいるだろうか。
広告に出ている子供達の写真はインパクトがある。募金を募るのにこういう手法が一番効果的なのも分かる。じゃあ目に見えにくかったり文章化しにくい問題はほっといても良いのだろうか。食べ物がなくて今にも死にそうな子供より、顔面の問題を抱える子供の治療のほうが先なのか。ダルフールで現在進行中の民族虐殺のことを考えなくて良いのか。先進国にだって問題がないわけじゃない。虐待されている子をほっといて良いのか。温暖化の問題だってある。
募金するっていうのはすばらしい行為に見える。実際多くの命を救ったり問題解決に役立っているだろう。でも、何か一つの募金活動に協力するということは同時に他の全ての問題よりその問題が大事だと決めてしまう事でもある。もっと言えば他の問題を無視することにもつながる。
どの問題が一番深刻か、そんなことを客観的に決めることが果たして可能なのか。何を基準にしたら決められるのか。
かわいそう、というその気持ちが募金につながる。しかしもっとも強く「かわいそう」と思わせられる問題が他の問題と比べて深刻だということは無い。
そんな偉そうなことを考えても数時間後にはセントパトリックズデイだということでパーティーに参加する。募金するはずだったお金は俺自身の楽しみのために消えていく。そしてそのときの俺はこういう問題のことはちょっとも考えない。
自分の偽善しゃっぷりが嫌になる。問題の多さ深刻さ、どうにもならなさに本当にいらいらする。どうしたら良いのか全然分からない。